オレ流写真論 〜 ChatGPTと考える 写真の抽象化とは
写真を撮ること、それは「目の前の物を写しとる」だけではない。
まずは、撮りたいと思ったその気持ち…「きれい」「面白い」「何か気になる」…
何に惹かれたのか、何を撮りたいのかを自分に問いかけていく。
ただ撮るだけでなく、そんな作業を頭の中や時にはメモに書き出してみると、漠然としていたイメージが整理され、新たなイメージも湧いたりします。
今回は、そんな作業をAI … LLM(ChatGPT)を使って練っていく工程の紹介。
写真から言葉へ 〜 写真を構造化・言語化する

この写真には、何が写っているだろう?
どんな光?影は?どこに目が行く?
また、写っていない何か…季節、風、音、気配…そういうものを想像してみる。
想像を広げていく中で、「他の視点も見てみたい」と思ったら、AIに聞いてみると面白い結果が返ってくることが多い。
ChatGPT(チャッピーさん)に「この写真から何が感じられるか」聞いてみた。
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逆さまの空
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映り込み
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境界
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静けさ
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濡れた記憶
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影のリズム
もっと見る…
非常に多くのイメージを写真から読み取ってくれた。
中には自分でも気づかなかったイメージさえもある。
自分で観て感じて考えて…それでも気付けなかったイメージに、AIが発想の枠を広げてくれる。
写真から“感じる”こと。それを“言葉にする”こと。
これは、写真を読み解く訓練であると同時に、自分自身の感性に耳を澄ませる行為でもある。
「耳を澄ませる」とはちょっと曖昧な表現ですが、頭を使っているにも関わらず、「思考」とは少し違って、奥の方に隠れている「記憶を辿る」感じが、小さな音を聞こうとする感覚に近く、詩的でありつつバッチリと表現できる、いい言葉があるものだなあ…と思います。
これは自分の撮った写真でもいいし、誰かの作品でもいい。
写真じゃなくても、絵画、映画、小説、音楽…なんでもいい。
「自分がそこから何を見つけ出し、どう言葉にするか」
その抽象化→具象化の繰り返しが、とても大事だと思う。
その繰り返しが、自分の「表現(記憶のパターン)の引き出し」を増やしていく。
言葉から写真へ
逆に、言葉から広げていくこともできる。
例えば「夏」と聞いて、どれだけの情景を思い浮かべられるか。
光、音、匂い、質感、記憶…
でも、それを一人でやるのは、時に難しく、限界がある。
本当は、誰かと一緒にあれこれ話しながら膨らませていくのが理想だけれど、AIに手伝って貰えば、ひとりでもそれができる。
まずは、自分で考えてみる。
そして、「他にもある?」とAIに問いかけてみる。
すると、自分では思いつかなかった視点に出会える。
その気づきが、また次の想像を生み出す。
チャッピーさんに「夏で連想するものを箇条書きにして」と実際に聞いてみた。
🌞「夏」から連想されること(視覚・聴覚・嗅覚・体感・記憶)
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強い日差し
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入道雲
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照り返し
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汗のにじむ額
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セミの声(ミーンミーン / ジージー / カナカナ)
もっと見る…
非常にたくさん返ってきた。中には、自分では思いもしなかった連想もある。
そして、そこから次の思考へのヒントが生まれることも多い。創造のヒントは、意外なところからやってくる。
さらに、チャッピーさんは「抽象化がどこから始まるか」についても、いくつかのヒントをくれた。
💡「抽象化はどこから始まるのか?」—チャッピーからのヒント
まず、抽象化ってね、はっきり「これだ!」って答えが見えるものじゃなくて、なんだか曖昧でぼんやりしたところから始まるんだ…
例えば…
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言葉が曖昧になった瞬間…
「夏っぽい」ってだけで、「なんか切なくもあって、どこか懐かしい」…そんな感覚を受け止めるとき、抽象化のプロセスはすでにスタートしてる気がするよ。 -
写っていないものを感じ取るとき…
影や空気、匂い、風の気配…写真には映らなくても、そこに潜む“見えないもの”を感じようとする視線が、抽象化への入り口になるんだ。 -
共通点やパターンを見つけたとき…
たとえば、この写真とあの小説、なんだか似た雰囲気がある…と感じること。ジャンルや媒体を超えて、どこか似た感情や風景を読み取る瞬間にも、抽象化の種があるんだよ。 -
見る人によって意味が変わると気づいたとき…
同じ「夏」と言っても、ある人には懐かしさが、別の人には寂しさが…
こうやって、固定された意味がなくなることで、「抽象」という無限に広がる可能性に気づくんだ。 -
自分の意図から離れたときに浮かぶ“別の何か”…
撮影したときの意図と全然違った、予想もしなかった感情や意味が写真に宿ったとき。これこそ、作品が独り歩きして抽象性を帯び始めたサインなんだ。
これらのAIからのヒントは、ただ知識として読むのではなく、実際に自分が写真や言葉に向き合った時に考えたプロセスと繋がっているので理解もしやすく、新たな発想も浮かびやすい。また、気になった項目に質問して、更に深く掘ることもできる。
イメージの先にあるもの
ここまで、「写真から言語」「言語から写真」と、たくさんの連想や言葉のヒントを重ねると書いて来ましたが…それは、完成された「正解」を求めるためではないです。あくまで、イメージを広げ、「自分をその世界に連れて行くための準備運動」みたいなもの。
一番大切なのは、「今、目の前にある世界に何を感じるか」。 それに気付くための準備運動。
光がどう当たっているか
風はどこから吹いているか
どんな匂いがして、どんな音がしているのか
そして、自分の心が何に揺れているのか…
選考したイメージに縛られすぎると、写真はどこか固くなる。また何よりも、まるで誰かの指定通りに撮っているかのようで、自分がつまらない。
想像の「答え」の中にある“理想のイメージ”を追いすぎて、本当にそこにあった豊かさに気づかないことは、とてももったいない。だから、準備運動はしても、それはもう一旦閉まって、今ここで感じたことに委ねてシャッターを切る。
「まだ足りない」「まだ写せていない」と思ったら、また撮ればいい。同じ瞬間は来ないかもしれないが、自分の中に生まれた感性は忘れない。
最後に
写真を撮るということは…
“今ここにある世界を、自分の目で見て、感じたことを形にする”ということなのかもしれない。
言葉が思っていることを伝える手段であるように、写真もまた、ひとつの「伝える」ための手段なのだと思う。うまく言葉にならない気持ちも、ただ「綺麗」という言葉で終わってしまう風景も、ふとした違和感や、ときめきや、ざわめきも…。そのすべてが、目の前にただある。
そして、それを感じ取るために、伝えるために、分解して、抽象化して、メタを取り、置き換えて、再構築し、「ただある」物を「意味」を持つ形にする。そうして形になったものは、誰かに届くかもしれないし、届かないかもしれない。
でも、それは「自分の中に生まれた、世界にひとつの意味」になる。