写真とか文章、アートなど、普段「 自分の中にある何か を形にしようとする時に感じるかもしれないちょっとした壁」みたいなものについて考えてみました。
なぜ表現に「客観」が求められるのか?
表現…つまり写真、文章、映像、そしてアートといった分野では、本来なら個人の独自の視点、すなわち主観を尊重すべきものです。しかし、現実には「もっと客観的に見るべきだ」とか、「それは自己満足にすぎないのではないか」、「他者からの評価を得たいなら、受け手の視点を考慮しなければならない」といった意見を耳にすることも少なくありません。
たとえば写真では…
撮った本人には「夕暮れの切なさ」が詰まってる1枚
→ でも他の人から見ると「暗い写真だね」って返される。

ここで重要なのは、「主観的に感じていること」と「他人に伝わること」の間にズレがあるということ。
感情が動いて取ったはずなのに、見た人にはその感情ではなく、写真の技術的な側面…例えば明るさとか構図とかそっちだけが目についちゃう。
僕は「見た人がそう思うならそれでいい」と思う。
けど少しでも誰かにも共感して貰いたい!伝えたい!と思うなら「相手が共感出来そうな表現」を取り入れないと、相手にはまったく引っかからないこともある。
前に「青い太陽」 ※1 の話をしましたが、青い太陽の絵や写真を見せただけでは、相手は「太陽が青いんだ…ふーん」で終わりかねない。
暗黙知 ※2 で太陽、夕日にまつわる基礎情報が既に詰まっていればそれに基づいて思考できるが、その暗黙知に当てはまるパターンが少ないと思考は止まる。
ですので、相手と自分の共通認識できる物をあえて取り入れる工夫をしないと、なかなか伝わらない。
※1 「青い太陽」 2025-08-16日付ブログ:正解以外の答えの必要性を書いた記事。ダブルミーニングで「確率的により正しく、正解しか出さないAIでは創造力は生まれない」という批判内容も持っています。
※2 暗黙知:経験などによる言葉や形に表しにくい知識 ↔︎ 形式知
「表現」と「伝わること」は別物である
「青い太陽」を見せるだけでは、相手には“ふーん”しか生まれない。
だから伝えたいなら、“相手の暗黙知に触れる共通の何か”が必要。
多くの人たちは夕日を見たことがあるだろう。その多くはオレンジ色の夕焼けや黄色〜赤い太陽。それらを知識として知っているし、同時に「今日も終わり」「暑かったけど涼しい風が吹いた」「帰宅する人影」といった経験的な記憶もある。
青い太陽は奇抜ではあるが、それだけだとこれらのパターンとはズレ過ぎてしまい、既存の知識とつながらず、そこで止まってしまう。
なぜ青い太陽の何を伝えようと思ったのか…そのためには観る側の暗黙知に近いものを意図的に用意する必要があります。
例えば写真だったら青い太陽の画像だけじゃなくて「今日の夕焼けはいつもと全く違ってた。まるで異世界の光景だった」みたいなキャプションを添えるとか。
文章でも同じ…
「正しさなんてない」と言うだけでは伝わらない。
でも、「たとえば、こんな場面で自分は苦しかった。その時、“正しさ”って何だろうと思った。」
→ それなら相手も自分の体験に引き寄せて共感できる。
まず相手が知ってる世界、共感できる部分にそっと触れて安心感を与え、その上ででも実はこういう見方もできるんですよ。で、少しだけずらして提示する。
共通認識に“乗らない表現”に、どう価値を持たせるか?
それでは、それら共通認識に全くかからない表現…つまり「伝わらないことに意味はあるのか?」
意味は生まれうる。
ただし、そこに「繋がるための別の入口」が必要。
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インパクト:意味がわからなくても「目が止まる」「気になってしまう」「もっと深く知りたくなる」強い印象や意外性。
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他の分野の共通認識や暗黙知:直接的な共通認識がなくても、異なる分野の「既に知ってる感覚」を借りて理解の足場にする。例えば、絵画の話を音楽に喩える、化学の話を料理にたとえる…など。
それらを乗せる…。
意味がわからないままでも、
🌀「なんか気になる」→ 🔍「なぜか探りたくなる」→ 🌱「ふと理解の芽が出る」
この流れが起きる可能性があるんだよね。
🧠 人が“意味がわからなくても”興味を抱く要素
1. ノベリティ(新規性)
見たことがない、聞いたことがない、予測できない
→ 脳は「予想とのズレ」に対して注意を引かれる(認知的不協和 ※3 にも似ている)
→ 例:初めて見る形の植物、未知の言語、逆再生された音※3 認知的不協和:自分の中で矛盾する二つの認知(考えや行動)を同時に抱えたときに生じる不快感
2. 感覚刺激の強さ(サリエンシー) ※4
視覚・聴覚・触覚などへの“突出した刺激”
→ 大きな音・鮮やかな色・強い明暗差など、五感が「これは危険かも?重要かも?」と判断する
→ 例:赤い警告色、鋭い音、パチパチ光るもの※4 サリエンシー:周囲の環境の中で刺激が「目立つ」ことによって、注意を引きつける特性
3. 本能的なモチーフ
生命維持・性・危険・顔・食べ物など、進化的に重要な情報
→ これらは「意味がわからなくても」目を引く
→ 例:蛇のシルエット、炎、涙、肌、目
4. パターンのズレ(予測と違う)
「パターンの途中で変化がある」と、脳が自動的に注目する
→ 例:リズムが崩れる音楽、不自然に途切れる映像、見慣れたものの歪み(不気味の谷)
5. “ミステリーギャップ”の存在
情報が“足りない”ときに埋めたくなる衝動(ツァイガルニク効果)
→ 「結末が見えない」「途中で止まってる」「理由がわからない」
→ 例:意味不明な看板、「これは何でしょう?」系の写真
6. コントラスト・対立
2つの異なるものの組み合わせに「意味があるのでは?」と脳が働く
→ 例:古い街並みに近未来アート、無垢な子どもが持つ武器、燃える水
✨補足:なぜ「意味不明」が興味になるのか?
それは人間が
「意味を探す動物」
だから。
意味がなければ、自分で埋めて想像するしかない。
だからこそ、「意味がわからないのに惹かれる」体験は、好奇心の入り口になる。
「意味がわからなくても惹かれる作品」とは
これは、作品に「解釈の余地」があることによって生じる現象です。「わからなさ」は、単なるノイズではなく、創造性を喚起する“種”として機能します。
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「解釈の余地」がもたらす要素
この“種”は、受け手に以下のような働きかけをします。
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“参加できる”表現
作品は、受け手が自身の経験や感覚を投入し、空白を“埋める”ことで初めて完成します。これは、受け手が作品の共同制作者となる、インタラクティブなプロセスと言えます。
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“繰り返し向き合える”強さ
明確な正解を持たない作品は、鑑賞するたびに異なる表情を見せます。その作品は、鑑賞者の内面が映し出される鏡(投影)となり、鑑賞者の精神的な成長や変化とともに、新たな意味を帯びます。
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“余白”は、信頼の証
作者が意図的に残した「余白」は、鑑賞者の心の力に対する信頼の表明です。これは、作者が鑑賞者の感性や知性を信じ、作品の完成を委ねる、高度なコミュニケーションと言えます。
エヴァンゲリオンの成功要因
『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットは、この「わからなさ」の力が顕著に表れた事例です。物語の随所にツァイガルニク効果(未完了の事柄が記憶に残りやすい心理効果)を巧みに利用し、「これはどういうことか?」という疑問を視聴者に残しました。
この「わからなさ」は、インターネット時代における「解釈遊び」と親和性が高く、視聴者自身が作品の“種”を育て、多様な解釈文化を形成する原動力となりました。
「ノイズ」としての側面
しかし、この「解釈の余地」は常に肯定的に作用するわけではありません。
多忙な状況下や、精神的に疲弊している時、あるいは迅速な結論を求める気分にある場合、難解で答えが用意されていない表現は、単なるストレスや煩雑な情報となり得ます。
このように作品の受け取り方は、鑑賞者の心理的・物理的状態に大きく左右されるという側面もあります。
「受け手を信頼して“解釈を委ねる”表現」は、今後AIもできるようになるのか
それともそれは、“人間だけの美学”なのか
技術的にはAIでも、余白を含んだ表現はできると思います。
しかし今の社会は、「わかりやすさ」や「正確性」「即答」ばかりを求めていて、 そういう余白をノイズとして切り捨ててしまいやすい。
だからAIも、人間に合わせて確信度の高い答えを返すように設計され、 揺らぎや曖昧さは、なるべく削られる。
ただ、人間には「それじゃつまらない」と感じる心がある。
役に立つかわからなくても、時間がかかっても…自分の手で形にしてみたくなる。見たことのない余白を。
それが創造性というものだと思う。
AIがどれだけ上手に模倣しても、 人間はまた新しい表現を探しはじめる。
誰かに届かなくても。 意味が伝わらなくても。 「それでも僕はこう見えたんだよ」と、そうやってまた新しい世界を創り出すものと思っています。